ちょっと一言

「異聞(?) 真田幸村」1月号編集後記より

 会員の皆様、新年明けましておめでとう御座います。

 忙しかった師走も過ぎ、お正月休みでリフレッシュされたことと思います。私などは毎年この季節に「心機一転!」と思うのですが、年度目標達成に向けたラストスパートや次年度の活動に向けた種蒔き等々、むしろ年が明けてからの方が忙しかったりします。とは言え、歴史好きの私は、年が明けると大河ドラマのスタートを楽しみにしています。

 今年は真田幸村が主役という事で、私だけでなく楽しみにされている方も多いのではないかと思います。
 さて、この真田幸村、甲斐の虎こと武田信玄に仕えた武将として、あるいは、大坂の陣で徳川方の攻め手を幾度となく撃退した猛将として知られています。もっとも、天下にその名が広く知れ渡るようになったのは後者の様ですが。
「その名」と申しましたが、彼の諱は、正しくは真田“信繁”であり、どうやら存命中に“幸村”と名乗ったことは無いようです。そもそも、“幸村”の物語にはフィクションの部分も多く、モデルとなる人物は存在したものの、猿飛佐助、筧十蔵などの“真田十勇士”も後の創作によるものです。
 ではなぜ“幸村”と呼ばれるようになったか、という点については諸説があり定かではないようですが、私が面白いと思った説は、「徳川家を相手に勇名を馳せた真田信繁を後の講談師や作家が放っておく訳もなく、しかし時代は既に徳川の世であるため、徳川家を憚って“幸村”とした」というものです。父親である昌幸と共に、織田信長には恭順し、 豊臣秀吉にはその家臣となったが、武田信玄の宿敵とも言える徳川家康に対しては最期まで抵抗して見せた信繁をそのまま描く訳にはいかず、信繁に限りなく似ている別人として “幸村”なる人物が誕生したというのです。確かに、そう考えると“幸村”の物語にフィクションが多いのも頷けます。元々がフィクションだったのですから。

 もう一つ面白い話があります。
 信繁には5人の娘がいましたが、その内の1人、阿梅(お梅)は、伊達家家臣の片倉重綱の継室になっています。
伊達家と言えば、大坂夏の陣で徳川方の大名として信繁と対峙しておりましたが、片倉重綱はその伊達家の先鋒を務めていました。
 つまり信繁は、敵方の武将に自分の娘を託したのです。実はこれにも異説があるのですが、元黒田家家臣の後藤又兵衛を討ち取り、自分を相手にしても一歩も引かない片倉重綱の勇猛さに信繁が感銘を受けたという説を私は信じたいと思います。

 史実としても定かではない経歴を持つ信繁をドラマではどのように描くのかはまだわかりませんが、大きな宿敵には抗い続け、しかし敵であっても信を置く信繁であって欲しいと思います。  

(Y.K.)

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